新着情報

Croquis No.4  ~虹の立つ処

 6月3日の夕刻、東所沢の空に、分度器のような半円形の虹が立ちました。午後の激しい雷雨が残していった湿った大気を、西からの陽射しがひと息に貫いてつくり出された壮観に、下校する中学生も思わず足を止めて歓声を挙げていました。

 「長元三年(1030)七月六日丁巳、今日関白(藤原頼通)ならびに春宮大夫家(藤原頼宗)に虹が立った。世俗の説により、売買の事(=市)が行われた。(~『日本紀略』十四 後一條)」

 平安期の資料には、虹の立つ処に市を立てる慣習が散見されます。そのことについて、思想家の中沢新一さんが『虹の理論』という本の中で、非常に興味深い考えを提示しています。中沢さんによれば、虹は大地に秘められた力を大気の中に吹き上げ、解き放つもの。それはまさに神聖な力です。人々は自分の持ち物を神に捧げるために虹が立った場所に持ち寄ります。持ち主のもとを離れた品物は虹の力によって清められ、別の人間のもとに下されます。商品の交換は、新しい人間関係を生み出す行いなのです。市とは人々が虹の力によって、それまでの自分を解放して新しい世界に出会い、新しい相手との自由な関係を結ぶ場と言えましょう。 

 私は、虹が立つところに人々の新しい関係が生まれるという中沢さんの考えは素敵だと思います。市が立てば、そこに人が集まり、たくさんの言葉と心情とが行き交います。その中から、憎しみも争い事も生じるかも知れません。しかしそれ以上に力強い喜びの歌が交わされ、恋も生まれるでしょう。虹を見上げる時、なにか新しい力がひたひたと心を満たしてくれるように感じるのは、その神聖な力のあらわれなのかも知れません。

 詩人・吉野弘の『虹の足』という作品をご存じの方も多いでしょう。「雨があがって/雲間から/乾麺みたいに真直な/陽射しがたくさん地上に刺さり/行手に榛名山が見えたころ/山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。/…(中略)…野面にすらりと足を置いて/虹のアーチが軽やかに/すっくと空に立ったのを!/その虹の足の底に/小さな村といくつかの家が/すっぽり抱かれて染められていたのだ。/それなのに/家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。/─ おーい、君の家が虹の中にあるぞォ/乗客たちは頬を火照らせ/野面に立った虹の足に見とれた。多分、あれはバスの中の僕らには見えて/村の人々には見えないのだ。/そんなこともあるのだろう/他人には見えて/自分には見えない幸福の中で/格別驚きもせず/幸福に生きていることが─。」

 格別驚くようなものではない日常の営みが、実は幸福のなつかしい薫りにつつまれているということは、確かに日常の外側からでなければわからないかも知れません。しかし、私たちが立ち位置を変えるだけで、広い田圃も、山路を走るバスの乗客たちも、榛名山さえも虹の下にあるように眺めることは可能です。唯一、私たちがその風景に描きこむことが出来ないのは、虹を眺めている私たち自身の姿です。私たちは、自分自身の外側に立って自分を見ることはできません。虹の懐にいる自分の姿は、決して見ることができないのです。

 自分という存在は、他者よりも遠い存在なのかも知れない…吉野もおそらく、その矛盾に気が付いているのでしょう。

開智所沢小学校  片岡 哲郎